ロロ「父母姉僕弟君」のこと

ロロの「LOVE02」は、愛だ恋だ好きだ、好きだーーーー!!!というまっただなか絶頂の滾る思いひたむきな熱さ幸福感が可視化できるさまに思いっくそ胸を打たれた。し、自分のなかで「あ、死ぬってそういうことか」てものすごい腑に落ちる作品だった。愛するひとが消えたとき、「忘れないから!」って誓ったとしても、消えちゃったらいつか忘れるんだって、輪郭がどんどんぼやけてしまうんだって、「忘れない」と言いながら「いつか忘れちゃうんだろうな」とあきらめながら、その「忘れない」が「忘れちゃう」に捕まらないように、懸命に自転車を漕いで、漕いで、漕いで、少しずつ薄れていく記憶のことを、死というのだ、と。

あいこが光になるから悲しいんじゃなくって、あいこのことを好きじゃなくなっていくんだろうなって思うことが悲しい


光になって消えていくあいこを、それでももう一度光らせようと、全速力で自転車を漕ぎ発電しながらモノローグする場面、あいこを生き返らせたいってより、忘れていく自分への罪悪感を埋めるような、自戒と後ろめたさのグルーヴに何度も泣いてしまった。好きだよ、好きだよ、大好きだったよ。謝罪の念が加速度をつけて重くのしかかる。


だけど。

生まれてきた「好き」は絶対に消えないの。「好き」は生まれることしかないの


といった亀島くんは黄泉の国aka天国でふたたび華ちゃんと出会うし、時空を超えてなお愛は死なないという気持ちを、「信じたい!」と三浦くんは、希望として私たちに提示してくれたのだなぁと思っている。肉体が消えても、魂は消えない。念は消えない。絆は消えない。と、「信じたい!」と。


正直、「LOVE02」以上の傑作が出てくると思ってなかった「父母姉僕弟君」。この作品も、そんな三浦くんの「信じたい!」でできてるように思う。とにかく「LOVE02」をはるかに超えての大傑作だと思うんですが、なんにしてもとっ散らかってる。ここには現在だけでなく、過去や未来や、くる予定のない未来でさえ並列に存在している。現在も過去も未来もめくるめく現れるから現在位置がわかりにくいのと、言いっぱなしでその場を撤収するため、2度3度見ないと伏線が回収しづらい気がするんですが、もう、どの場面も、どの台詞も、ぜんっぶ必然でぜんぶ希望でぜんぶ光です。三浦くんは最初っから伏線を回収する気なんてなくって、だって彼はどの言葉も思いも愛して信じてるから、なんじゃないかと思う。そして純愛、親子の愛、家族の愛、兄弟の愛、ペットへの愛、あらゆるパターンの愛と、その美しさを、いろんな角度から見せつけてくる。


最愛の妻を失った男、父親の過保護に悩む娘、娘の反発に悩む父、「野球っていうのは家族でやるスポーツなんだよ」と、野球チームに見立てて家族の在り方を模索する男女、天涯孤独な少女…彼らはデタラメな家族を作ることで、憧れていた家族の絆を知ろうとする。「おかわりー!」と言われることを喜ぶ。「ママー!」と呼ぶことを喜ぶ。ちゃぶ台をひっくり返されることを喜ぶ。説教されることを喜ぶ。セオリー通りに家族の営みがあることを喜ぶ。でも、家族はセオリー通りにいかない。

「わたしは父親として未熟なところもあります。でも、その未熟なところも許容して支え合っていくのが家族のあり方だと思うんですよ!」
「それはただ甘えてるだけじゃありませんかね?許してあげないことも愛情だよ?」

「俺に理想を押し付けないでくれよ!」
「期待するのが家族だろう!」
「なんも期待しないでいられるから家族なんだよ!」

「あたしが勝手にするためにお父さんが必要なんでしょ!」


こういうの、言いっぱなしで場面がどんどん展開していくんだよね。だけど父親は新しい名前をもらっておばあさんのペットとして生きるし、弟との絆(手)は簡単に持ち運べるようになるし、どんなことになってもちゃんと希望が点在している。三浦くんは「舞台では棒を持って“バットだ”と言ったらその棒はバットになっちゃう。そういうことをやりたい」という発言をよくしてるんだけど、それってつまり舞台の上ではどんな魔法もかけられるってことだと思ってて、今作でのロロは、そんな魔法をありとあらゆるかたちでぜーんぶ使ってみせてる。かたくなに暗転を拒む演出がなにしろ素晴らしい。いろんなとこから小道具が飛び出すは思いがけないつなぎで嵐のように去るはすっとこどっこいドタバタながら客の目を誘導して鮮やかに場面、場面、場面を展開させるさまは、まさに魔法使いさながらの手腕。


劇中、音楽前夜社のペンによる挿入歌が入るんだけど、そのシーンは、デタラメな即席家族ながら、欠けてしまった家族のために、「盛り上げないと!」ていって、みんなで演奏をするシーンで。説得するわけじゃないし、放っとくわけでもない。ただ、家族として演奏をするという美しいシーン。そこに、三浦くんのラブが詰まってるなぁと思うんですよね。家族のすべき答えがあるわけじゃない。ただ音を紡ぐ優しさがそこにある。セオリー通りでもセオリー通りじゃなくっても、血がつながってようがいまいが、どんなかたちでも家族であることのかけがえなさを信じたいと願う、彼の愛が詰まってる。音楽は過去をなぞってふたたび現在へいざない、照れくさそうな「おかえり」「ただいま」へと紡がれていく。そして場面はキッドと天球のクライマックスへ。



「私は忘れてほしくないの。ただ、忘れてほしくないだけなんだよ」



と、天球は言った。忘れちゃうことを知ってるキッドは、天球の死体を捨てなかった。腐っても悪臭を放っても天球の死体が、物体がそこにあることに執着した。なくなったら忘れちゃうから。消えたら忘れちゃうから。彼は、形あるものにすがる。天涯孤独だった少女は「想像して」という。想像力によって、天球がふたたび現れるのだと。忘れる、に抗えるのは、想像力であると。彼女は確信を持って言う。「わたしは来世も再来世も忘れない」と。「そのために日夜お人形遊びに勤しんでるわけですから」と。それでもキッドは、想像のなかの天球ですら記憶を留めていられない。



「私は忘れてほしくないの。ただ、忘れてほしくないだけなんだよ。忘れたことを悲しむんでしょ、キッドは。」
「今の君はかつての君じゃないけど、今の君も、かつての君も、べっこにそれぞれ愛してるんだZE」
「だって忘れたくないのに忘れちゃうのすごく悲しいじゃん!」
「あのときの君に幸あれ」
「でも忘れちゃうんだよ!」
「あのときとあのときとあのときとあのときと」
「だから俺は超悲しむ!!!!」
「あのときとあのときとあのときとあのときと」
「ひたすら悲しむ!!!!!」
「この先もその先もその先のその先の全君に幸あれ」
「最悪、なんにもわかってないじゃん!」


向い合せの椅子をいくつも並べて観覧車に見立てるシーン。ハイライトのひとつ。初めて読んだラブレター、ソフトクリーム、西部劇、機嫌の悪くなった天球、天球のために購入した観覧車。観覧車に乗って向かい合うふたり。観覧車が円を描き、ぐるぐると過去/現在を映す。そこには2人の生まれなかったこどももあらわれる。現在/過去/未来が、あるがままに存在する。


「忘れないで」「忘れないで」「忘れないで」「忘れないで」叫ぶように体から祈りを発する天球と、消えていく記憶をとらえられないキッド。大きなベニヤの壁がキッドの前に立ちはだかり、光は見えなくなる。薄れていく記憶とともに、死が迫ってきていることを思う。彼は言う。「俺が忘れたくないのは、天球と出会ったところから」と。「なくなっちゃうものは、忘れちゃうから、うん、それはしょうがないからね。だから、俺はなくなるから忘れるまでのつかの間に、俺の思い出を、俺の感傷が上塗りしてしまうまでに、せめて、できる限り細かく、正確に描写する」と、天球との出会いを、最初からぜんぶ描写しようとする。大きな栗の木の下で、木を見上げていた天球。声をかける。視線がつながる。名前を呼ぶ。木が揺れている。何してるの?って声をかけたら、天球は。天球は……何て言ったんだっけ?「そういう景色がかつてあって、今はもうなくなっちゃったかもしれないけど、かつて本当にあって、そのかつてが今と、これからに、つながりますように」と言いながら、渾身の力を込めて、バットを壁に当てる。「俺が、いつか、忘れてしまっても、どこかに、そのかつてが生き残りますように。たっくさんのかつてが、生き残りますようにって、描写して、描写して、描写して、描写して」バットがベニヤに叩き込まれる。何度も何度も叩き込まれる。木の破片を飛ばしながら、ベニヤの壁から光が漏れる。



「だから天球、俺が忘れても、天球のかつては決して消えないから。ちゃんとどこかに残るから」



鳥の羽ばたきとともに視界が開かれて、かつてあった、ふたりが出会った場所、大きな栗の木の下へ出る。そこでキッドと天球は、再び出会い、かつてを繰り返す。それは、薄れてしまいそうな記憶の断片。何してるの?って声をかけたら、天球は。天球は…………



「鳥がいるんです。鳥の家族がいるんです」



そう、キッドが描写したかつて、を、私たちが見ているのだ。天球のかつてが消えないように、私たちが、いま、見ているのだ。だから、例えキッドが忘れても、キッドと天球の出会いは、あるがままに存在する。三浦くんは、ロロは、この景色を、天球の祈りを、私たちに託したのだ。「100年後も語り継がれるものを作れたら幸せ」と、アフタートークで三浦くんが言ってた。不確かで心細い人間の記憶を、かたちにして残すことで、命を語り継いでゆく儀式。そういえば、アフリカの一部、文字が使われていない地域では、歴史を音楽に託して伝承しているという。わたしが忘れても、あなたが忘れても、作品は残る。言葉は残る。存在は残る。と、彼らは信じてる。信じたいと願ってる。過去も、現在も、未来も、あるがままに存在することを。


ロロ制作の坂本ももさんが「千秋楽前の全集で三浦くんが、最後だけど明日もこの芝居はあるんで、そういう風にやってください、と言いました」とツイートしてた。このエピソードがめちゃくちゃ好きだ。舞台上の演出でロロは、あらゆる魔法が使えることを私たちに見せてくれるけど、本当は、三浦くんは、舞台を離れても魔法が存在するってことを信じてる気がする。つまり、彼は、想像力が常識を超えると信じてる。すべてのことが起こることを信じてる。すべてのことが愛しいと感じてる。本当はそんなこと思ってないかもしれないけど、そんな風に思えるから、やっぱりロロが好きだし信じたいと思ってしまう。


最後に彼らは、挨拶を交わす。この営みがずっと続きますようにと祈るように。お互いの存在をしっかり刻み付けるように。またすぐに会えることを願うように。


「おはよう」
「こんにちは」
「おやすみ」
「アイラービュー」
「ハウアーユー?」
「ごめんなさい」
「ありがとう」
「初めまして」
「久しぶり」
「またね」
「バイバイ」


本当に、大傑作だと思います。感想がぜんぜんうまく書けねえ悔しいぜ!