「イノマーロックフェスティバル」のオナニーマシーンのライブのこと

 その日のオノチンは出演前から明らかに挙動が変で、サンボマスターが、熱情が音を突き動かすような最高のライブをやり終えたところでステージに飛び出そうとして制止されていたり、出演前のリハ中も自らギターを触りに行って戻されたりしてて、背後のお客さんも「オノチン酔っぱらってるじゃん」とか話してて、私もそう思ってた。まさしく千鳥足というに相応しいヘロヘロな足取りでステージを行き来してた。

 いざオナニーマシーンの出番でプリンセスプリンセスの「19 Growing up」がかかって、かかってるにも関わらずワンコーラス終えても誰も出て来なくて、なんならそろそろ曲が終わりかねない頃にようやくガンガンさんとオノチンが出てくるんだけど、オノチンはステージに連れられても袖に戻って、またステージに連れられてもすぐ袖に戻って、それを何度も繰り返してなかなかステージに立とうとしなかった。ようやくステージに立っても曲に向き合う感じでは決してなかった。ベースこそ録音?が鳴っているもののボーカルはいない。どういう取り決めがあったのかは知らないけど、「あのコがチンポを食べてる」「ドーテー島」はほぼガンガンさんがボーカルをとってた。

 江頭2:50さんが登場しても「きょうイノマーがどっか行っちゃって…悪い風邪になったみたいで…」などと聞き取れない言葉を繰り返し江頭さんに正され、「俺を突っ込みしてどうするんだ!!」となんとかステージをやり遂げようとする江頭さんそっちのけで暴走を繰り返すオノチン。台本ではここでベースにtheピーズのはるさんを、ボーカルに銀杏BOYZの峯田くんを迎え入れ、イノマーが最高に喜ぶかたちでオナニーマシーンとして演奏するはずだったはず。でもオノチンはなかなかゲストを呼ばない。なんとかはるさんが登場しても峯田くんを紹介しようとしない。痺れを切らした峯田くんが気を利かせて「遅いよ!!!!」と登場してもバツの悪い顔でそこには乗ってこない。それでもステージを進めないといけないから、全員がオノチンの挙動を見守るかたちでなんとか演奏を促すも、「チンチンマンマン」の冒頭のリフを弾かない。弾きこなそうとしない。もうオノチンのリフがどうあれみんなが無理やり演奏を強行する。なんとか演奏し終えるものの今度はオノチンが峯田くんに近づき、そのまま抱き着いて離れなくなってしまった。
 2人の姿をモニターがアップにする。オノチンも峯田くんも何かをしゃべってるんだけど、何をしゃべってるのかはわからない。オノチンの表情は峯田君の胸に埋まっていてわからない。峯田くんは怒っているような、泣いているような、絶望と同情が入り混じっているみたいな表情をしてて、どういう状態なのか本当にわからないまましばらくてふと、「だから言ったじゃん!」という峯田くんの声をマイクが拾った。「だから言ったじゃん」--????

 峯田くんが放ったのは、「だから言ったじゃん、そんなに飲むなって」なのか、「だから言ったじゃん、イノマーはもういないって」なのか、分からないし、そもそもこの時のオノチンの状態も気持ちは私にはわからないんだけど、2019年10月23日以来、2年以上ぶりにオナニーマシーンがステージに立って、ようやく「イノマーは本当にもうこの世にいないんだ」って私も初めてすごくすごく痛感した。イノマーはなぜか私のことを「クリちゃん」と呼んでいて、いつもアトピーの身体を搔きながら「クリちゃん何やってんの」てニヤニヤしてて、あそっか、猪股さんはもういないんだなってようやく理解して、初めて涙が出た。当事者にとってみたら、このダメージは思っている以上のしんどさなんだろう。この日、オナニーマシーンが演奏をしたら、いよいよオナニーマシーンイノマーを失ったことを目の当たりにしてしまう。正直、ガンガンさんオノチンに加えてはるさんのベースと峯田くんのボーカルなんて音楽的に豪華すぎるしめちゃくちゃ聴きたいじゃん。でもそうしたらイノマーはもうオナニーマシーンに戻ってこれなくなっちゃうんじゃないかって、イノマーが帰ってくるまで俺がイノマーの場所を守ってみせるって、オノチンはあのステージでたったひとりで抵抗していたんじゃないかなって。最後はステージに全員集合して「I LOVE オナニー」と「オナニーマシーンのテーマ」を演奏した。オノチンはギターを弾いているものの、ステージから降りてしまう。すかさず峯田くんが気づいて引き上げてステージに立たせる。何度も「きょうイノマーがどっか行っちゃって…悪い風邪になったみたいで…」と繰り返し、ずっと挙動不審で、最後の最後までどうしたいのかわからなくって、仕舞いには氣志團の翔ヤンに「どうしたいの!笑」て突っ込まれてた。で、ん、これで終わりか?アンコールがあるのか?というよくわからない空気の尻すぼみで「本公演はすべて終了しました」という会場アナウンスが響いた。よくわからなかった。終わったのか、そもそも始まってたのか、なんかよくわからないライブだった。音楽的には最低だと言えるだろう。でも私は、イノマーがずっと繰り返してた「氣志團のライブを見て、生半可な気持ちでステージに立っちゃいけないと思った」という言葉を思い出してた。イノマーが誰よりも大事にしていたステージを、オノチンはたった一人で守った。イノマー不在のオナニーマシーンを決して始めず、終わらせなかった。よかったねイノマー、大事な場所を、大事な仲間が残してくれたよ。最高じゃん!って、港の灯りを眺めながら、初めてオナマシが脱いだ時の吉祥寺WARPのライブを思い出してたんだ。

おしまい。

前田司郎さんの初オリジナル連続ドラマ「徒歩7分」のこと!



はじまったときの印象は、正直、拍子抜け、だった。
田中麗奈が綺麗すぎて親近感が湧かないという個人的なアレなのか、恋人もなく友達もなく仕事もなく後がない30代前半の主人公が、不安とうしろめたさと寂しさを抱えながらただただ、一人暮らしをはじめたばかりの一人の部屋で時間を貪るという姿、女優さんが振る舞うと美しいだけで、寝ながらクッキーを食べてボロボロに食べかすを落として、それが髪の毛につくのも気にせずうつろでいるシーンなんて、無機質な部屋の閉塞感よりもその手足の長さの美しさがまさってしまう。羨望の思いに気を取られてわたしは、その背後にゆっくりと確かに流れる時のタペストリーに気づけなかったんだと思う。なんにもない、起こらない、ゆっくりとのさばる時間のうつろいをただ退屈だ、と、感じてしまってた。


何も起こらないのだ、もともと、日常には。脚本じみた雰囲気言葉も吐き気がするほどのロマンチックも演出過多な大ストーリーもそう滅多にない。てかない。だってドラマとかみてたらやっぱ嘘の言葉だって思うもんな。もちろんフィクションだからこその強度ってあるし、それを武器に翻弄してくる作品なんて夢中になっちゃうし妄想が羽を伸ばして大いに喜んでしまう。でも、嘘くさい物語を取り繕うように説明されて、いかにもな正論を吐かれると、脚本は説明に挿げ替えられるものでも綺麗事の盾になるものでもないのになって思ってしまう。


だからとて何もない時間なんて一秒もない。毎日おなじ時間に起きて同じ時間に仕事に行って同じ時間に帰って、ご飯をたべてお風呂に入って、寝て、または毎日ただただ同じ部屋で時間の制限なくダラダラ過ごすとして、当たり前だけどそれでもわたしたちには一日とて、同じ日はやってこない。光だったり、風だったり、温度だったり、暑いと感じたりずいぶん涼しくなったな、とか感じたりこれからわたしはどうなってしまうのだろうかとか今日も無駄に過ごしてしまったとかとりとめのない思考の切れ端は常に頭のなかをぐるんぐるんと散らばってて、止むことなく、少しずつ蓄積されていく。わからないぐらいのはやさで、微量さで、わずかながら織り重なる日々の無駄が、気づかない間にわたしたちの人生だ。表面的にはなーんにも起こらないドラマなんかほど遠い、ただの日々の退屈。その裏に、確かに生のあしあとは空気を揺らしている。


徒歩7分」は、それを、その無駄が紡ぐわたしたちの日々のかけがえのなさを、見事に可視化してくれたような作品だった。
親元から逃げるようにひとり暮らしを始めたニートの女性とそのストーカー、隣に住むバツイチ子持ちの看護師の女性、彼らは駅から徒歩7分の場所で出会い、ただの時間をすれ違う。最初は嫌悪を、次第に好意を、いつの間にか友情を、時間が経過したぶんだけ、空気を揺らしていたただの時間は、意味のある時間へと彩られていく。


第6話、これぞ前田節!と言わんばかりの、すれ違ってはコロコロとあさってへ転がっていくマジカルな会話劇のひょんな思考回路から、3人は日曜昼にお餅つきをはじめる。いつか親が死ぬということ、おそろしく不安なわたしたちの人生はおそらくまだ続くということ、日常のはしっこにこびりつく不安を告白し合って重くなった空気を、あっさりと食欲が払拭してしまう、その脚本の鮮やかさといい演出といいそれに応える俳優陣の演技も抜群に素晴らしくて、この一連を封じ込めた長回しのシーンは「徒歩7分」のなかでも傑作の場面だ。ここへきて前田脚本が、俳優陣の身体にしっかりと根付いて息吹くような魅力を放っている。ずっとこの時間にいたい。永遠にこの場面が続けばいいのにとすら思ってしまった。
シーンの最後で彼らは、なぜか不自然に動きを止めてしまう。


実は、餅をつくスピードがどんどん速くなって田中圭さんと菜葉菜さんが笑いをこらいきれなかったのです。
それでも麗奈さんは芝居を続けたのですが、一旦ツボに入ってしまった2人はそのまま肩を震わせていました。
(スタッフブログより)

確かに、よく見直してみると彼らが下を向いて笑いをこらえているそのシーンまで、この映像のなかにはちゃんとおさまっている。物語上の3人が時間を育んできたように、役者さんたちの関係も擦り合って醸成されてきたのだ、と思う。その生々しい軌跡をもこの作品は、フィクションの煌めきとともに真空パックしてしまったのだ。そして、物語は急発進していく。あらかじめ不安が横たわる想像の未来へと、彼らは向き合う覚悟をする。歩き出してみないと、未来は過去に呑まれてしまうから。経験が可能性を闇にしてしまうから。


「最初『依子の冒険』という題で書いていた。小さくて胸躍らない個人的な冒険だけど、そういうものの積み重ねが僕たちの生活じゃないかと思ったからだ。依子は自分の未来が想像できる。未来があまりにもリアルに実感できてしまって恐ろしくなったのだろう。自分から迷子になってみないと駄目だと思ったのだ。実家を出るという、大したことのない一歩だけど彼女には大きなこと、冒険だった。良いタイトルだと思ってたけどボツにされたから、しばらくはタイトルなしで書いていたら、依子はずっと家に居るし、外に出たと思っても家の近くにしか行かない。僕の家から最寄の駅までだいたい徒歩7分で、依子の行動範囲も大体それくらいだろうと思った。家に居ても、嫌でもなんでも、僕たちは真っ暗な未来に向かって突き進んでいく。目に見えている未来は過去で出来た偽の未来で、未来は未来でしか出来ていない。依子と一緒に日常の冒険を楽しんでくれたら嬉しいです。」
(スタッフブログより、前田司郎さんが番組に寄せたコメント)

悲しいのか、喜ばしいのか、前へ進んだのか後退してしまったのかわからないラストだった。だけど、過ごしてきた時間はしっかりと愛おしさを残して心に積まれている。そうやって色づいていく日々こそがわたしたちの冒険の証なのだと思う。よくもまぁこの作品の枠をとってくれたNHKの中島由貴さんには感謝しつつついでに「徒歩7分」のDVD化を超切望します。祝向田邦子賞!ということで、前田司郎さんの連続ドラマ、今度は民放でもお願いしますよ〜。

Paradise@下北沢three

Paradiseのラストライブ@three。Paradiseはやっぱり圧倒的にただただかっこよくて最高だった!ほんと最高だった!


思えばParadiseは本当にへんなバンドで蜘蛛の糸のような切れやすいもので、おそるおそるメンバーがつながっているような印象だった。それでも冷牟田くんはいつでもずっとぶれずに呼詩さんを愛していたし、なんだかんだ呼詩さんは萌さんの才能を認めていた。きょうのライブは僕のわがままでやらせてもらったんです、というようなことを冷牟田くんが言ってて、萌さんが抜けたParadiseのライブを呼詩さんがやりたがらなかった気持ちはすごくわかるような気がするし、萌さんが抜けてもどうしても最後にParadiseをやらなければならない冷牟田くんの気持ちもわかるような気がするし、最後までParadiseはParadiseなんだなぁとか思う。


しかもラストライブでありながらこの編成は最初で最後という意味不明だけどそれもParadiseらしく、混沌を滲ませていくような冷牟田くんと混沌に輪郭をおよぼすような丸山さんのふたりの轟音ギターが重なり合うその時点でParadiseではない音だと思うし、しかしこれがParaiseの完成形だったのかもとも思うしラストがファーストであったParadiseは未完成のまま完成を迎えたのか、完成されながら未完成なのか、そんなパラドクスも最後までParadiseらしい。


ロック合戦轟音ギター2本と重低音で歌うベース、そしてしっかりと存在感のあるドラムというなにしろその音圧、音の洪水に痺れまくったし、Paradiseの時代錯誤の王道なロックは最高にセンセーショナルで耽美だ。かつ客席のうしろからへらへらしながら呼詩さん出てきてステージに上がったときの空気の変わり方彼の存在感。彼の存在する場所はここなのだと思わざるを得ない。どこまでもスキャンダラスで圧倒的なロックスターだ。


冷牟田くんの日記に

自分がParadiseをやった時間は8年。人生の中の8年間だけ夢を見ていたのと同じだ。でもその夢の方が人生を変えるというケースがあるのだという事を自分は自分の人生の中で実証出来た。それは生まれて来て良かったという事と等しい

自分の人生は夢で出来ている。おそらくこうたの人生も。Paradiseを聴いてくれた人もどこかそういう所があるんじゃないかと勝手に思う事にしてる


とあって、であればParadiseが最後に鳴らした「My Generation」は、ともにわたしたちが夢をみていた8年間のことであるのだとこれがParadiseの最後のメッセージなのだと勝手に解釈した。「Paradiseのこと忘れないでください」と「みなさん元気でいてください」が冷牟田くんの最後の言葉。

Produce lab89『官能教室』再演シリーズ第1弾「三浦直之×堀辰雄【鼠】」のこと!

    



ロロの作品にあるみっともないぐらいまっすぐな無垢はどっからくるんだろうって思ってる。ただただ思って思い込んで思い続けてまがいものが付け入る隙ないピュアな思い方で、その思い込みだけで妄想を真実にひっくり返せちゃうほど強靭な無垢さで、世界を形成しようとしてる。そうやって世界が形成されると、三浦くんは信じてるのかもしれない。


以下、超絶ネタバレかつセリフはうろ覚えです。


『官能教室』と題された今シリーズ、三浦くんは堀辰雄の「鼠」をセレクトした。「死んだお母さんを思ってオナニーする少年の話」だと彼は言っていた。じゃあ、はじめます、と、一言いい、「彼等は鼠のやうに遊んだ」と、三浦くんがその冒頭を朗読する。「彼等はある空家の物置小屋の中に」と続けるうちに、空間現代・野口さんのギターが言葉を切り裂く。「どこ/から/見/つけ/てき/たの/か、數/枚/の古/疊を/運ん/でき/て、」ズタズタのはぐれ言葉が宙を舞う。と、「鼠」のなかで母親の面影に重ねて性愛の象徴とされている「石膏の女の人形」に扮する望月綾乃先生と、2人きりの追試の教室へ場面がスイッチする。まったく問題を解けない三浦少年。「明日も3-1で追試だから!」と促す望月さん。望月さんの、象牙のようななめらかな声が「鼠」のテキストをなぞる。野口さんのギターが寄り添い歌を呼ぶ。すると、言葉は子音からはずれて、母音だけが鳴らされる。


「みんな!お待たせ!」と、天井裏で「めいめい家から何か遊び道具を持ち出して」鼠のように遊ぶ少年たちがあらわれる。あるものは排水溝に溜まった母親の髪で作ったカツラ、あるものは盗んできた母親の脱ぎたての下着、あるものは拾った母親の親知らず、あるものは採集した母親の尿。そのたび三浦少年は、恍惚の表情をみせ、「ありがとう」と漏らしながら、髪を、下着を、歯を、母親のかけらたちを身に付け、尿を飲み、母親と同一化しようとする。同一化し、呼びかける。「直、どうしたの?そんなに暗い顔して」「きょうね綾乃ちゃんがね、ボインボイン触らせようとするんだよ!気持ち悪いよ!」「まぁかわいそうに。でも綾乃ちゃんのボインボインはボインボインじゃないから。あんなの偽物のボインボインだから、お母さんのボインボインを触って、直、ほら触って、あぁっ、そう!」三浦少年が自らのボインボインをまさぐり悶えていると、そこにまた綾乃先生が割って入る。そして三浦少年は告白する。自分が乳離れが遅かったこと、母親のボインボインから出たミルクをかけた朝食のグラノーラのおいしかったこと…「わたしは先生みたい立派なおっぱいは持ちあわせてないけど、わたしもお母さんみたいなミルクが出せるようがんばります。わたしのおっぱいならお母さんと同じミルクが出ると思うから」「もし三浦くんが望むなら、わたしのボインボインでミルクを…」と提案する先生。に、「いらないわ!」と一蹴する三浦少年。「先生はわたしのこと性的なまなざしで見ているふしがあるし、わたしもそうみているところがあるし…わたしは、性的なものとは離れたところでおっぱいのことを考えたいの!!」


怒り狂った先生に「母親の形見を学校に持ってきちゃダメって言ったでしょう!!」とすべて奪い取られ、差し歯を抜かれ、ペットボトルに放尿を命じられて抵抗できず、ただ泣き叫ぶだけの三浦少年。「石膏の石の人形」である先生は、形見をすべて身に付け三浦母を降臨させる。「鼠」を朗読する三浦母、鳴り出すギターのフレーズ。すると三浦母は、ギターの音にエクスタシーを感じ、悶えはじめる。そこへ出くわした三浦少年が、嬉々として「お母さん!」と叫び、「僕もできるよ!」とギターの音色を真似し出す。お母さんは三浦少年の音色には反応しない。野口さんの音にあえぎを漏らす。三浦少年は体をギターに変えて音を奏でる。「直、どうしたの?そんなに暗い顔して」「そう、でも綾乃ちゃんのボインボインは偽物のボインボインだから」三浦くんの声はギターだ。「じゃあお母さんが子守唄を歌ってあげるからね」……


「あっぶね!!!だまされるところだった!!!お母さんじゃないじゃん先生じゃん!!!」
そして、母親の形見を利用して三浦少年を性愛へと誘惑しようとする望月先生と、母親のかけらをひとつも持たずに母親と同一化しプラトニックを貫こうとする三浦少年の激しい攻防が、鬼気迫る演技合戦で怒涛に展開し、顔じゅうビチャビチャに汗を滴らせた三浦くんの、自らのおっぱいを鷲掴みながら欲望に打ち勝とうとする断末魔のようなふるまいでエンディングへ突入する。「鼠」の朗読は母音をあらわにし、母なのか石膏なのか先生なのか、望月さんの言葉と交わっていく。母音と子音とぐちゃぐちゃになって望月さんの言葉とまざりあっていく。野口さんのギターが混ざり合って言葉にグルーヴをつけていく。言葉は艶を帯びて空へ昇天する。つまり、それが、性的なものから離れたところにあるボインであり、三浦くんの理想とするセックスのことなのだろうか、と思う。


彼は、アフタートークで自分の母親に向かって自分が童貞であること、そしてオナニーもしないこと、をぶっちゃけた。戸惑う母親と野次を飛ばすロロのメンバー、笑いに包まれる会場。その最後のはじっこのほうで、早口で小さな声でこうも発言したのだ。「僕はお父さんとお母さんのことをすごい尊敬してるんで、だから、同じように人に思うことができない」と。出来すぎた両親に、きちんとした育てられ方をしたこと、それが自尊心となって彼の潔癖を生んだのかと。そしてその潔癖は他者への期待と理想のあらわれでもあるのかと。だからこそ、ロロの作品というのは、あんなにまでまっすぐに無垢で後ろ暗いことがひとつもない、まぶしい光にまみれているのかと。


つまりこの作品は、「鼠」という、「死んだお母さんを思ってオナニーする少年の話」に委ねて、性愛の象徴である石膏と、敬愛の象徴である母親、言葉という理性と、言葉のなかに埋もれるエロス(母音)を重ねて、三浦くんの、他者との関わり方のスタンスを、潔癖なまでの理想を、あらわにした作品だったんだと思う。彼は性と愛を切り分けて精神的なつながりで他人とひとつになれるということを、道具やトリックなしに気持ちだけで肉体を超えることができるということを、汗だらっだらで鼻水ずるずるな舌足らずの耳鼻咽喉で、訴えてみせた。理想論ではなくそれを証明してみせると、叫んでみせた。んじゃないか。そうやって世界は美しいまま形成されると、三浦くんは信じてるのかもしれない。信じたいと、信じてるのかもしれない。本当は、三浦くんの純真性について、三浦くんのお母さんに質問してみたいってすごい思ったんですが、でももう、十分みれたかなって、この作品で。だからやめました。てかああいうとき絶対質問とかできないけど。


あとあと、脚本やら演技やら音楽やら、も素晴らしいのですが、ロロの舞台演出は本当にすごい。小さないっこの舞台で、ほぼ暗転なく場面展開できるのはこのアイディアのたまものですね。脚立と学校机による高低差の使い方とかライトとスポットライトの使い方(デスク用のやつ)とか、最先端の機材なんてなしにアイディアと工夫だけで想像力を創造させる豊かな舞台を立ち昇らせてみせる。まさに、演劇を観る喜びを感じてしまいます毎回(なのでどネタバレ許して!望月さんもこの作品はもうやらないと思います、とおっしゃってたし!)。


この作品ができるきっかけをつくった&再演を決めてくれた徳永京子さんにも感謝です!(パンフの文章むっちゃよかった…)
はー、次は「ロミオとジュリエットのこどもたち」だ〜!楽しみだね!!

aiko「泡のような愛だった」のこと!



もはやこの方aikoの作家性というか変態性というか音楽家としての素晴らしさを語りつくしてくださったとゆえるのでわたしの出る幕なんぞないのですがしかし「泡のような愛だった」、いまさらすぎますが本当に名盤ですね。


aikoの作曲というか作詞というか節回しというかたぶん彼女自身が高域の声を出しずらくなって例えば「カブトムシ」とか「ボーイフレンド」みたいなわーっ!とサビでどキャッチーなフレーズを開放するような曲のつくりよりも例の菊地さんが唸ったという「くちびる」のような、複雑に入り組んだ節構成の低音ボーカル曲が増えたように思うけど、そして彼女自身もジャズのボーカリストのような、リズムのタメやファルセットを多用した技巧的な歌い方を魅せるようになってきたように思うけど、「泡のような愛だった」はその極みと言える、つまりヒットを狙うとかJ-POPかくあるべしみたいな、aikoなりに意識していたと思しきそういったしがらみから開放された、aikoだからこそ歌える、aikoだからこそ紡げる、メロディと言葉で歌う喜びを味わったaikoの作曲力とバンド演奏がもっとも喜ばしいかたちで成熟しているおそらくすべてのミュージシャンが嫉妬してしかるべき絶頂のように思います。


なかでもやはり、ドラムの佐野康夫さんとaikoのメロディが出会ったことは大きい。
aikoのうねうねしてるメロディが、タイトながらシンバルがしゃわ〜っとリズムに陰影を持たせる佐野さんの奥行きの豊かなドラムと重なって、曲の持つ表情の、喜怒哀楽の隙間にある言いあらわせないところを表現してしまう。「距離」のイントロなんか、ずっと好きなのにずっと言えないで保ったままのあなたとの距離に揺れ動く心の満ち引きを繊細なシンバル使いで表現してみせたといえるし、「遊園地」では昭和歌謡ライクな怒涛のスカリズムが、恋人に捨てられた暴風雨のような葛藤を表現しているように思う。この細かいアレンジ部分まですべて島田さんの指示なのか、ある程度のキメ事のほかは佐野さんがらしさを出しているのか、島田さんはいつごろから佐野さんが必要だと思ってたのか、彼のドラムを欲した理由は、とか、島田さんご本人の口から聞いてみたい気もしますが、天才的な勘の良さをもってるaikoなら、感覚でわかってるんだろうなー。佐野さんがもたらす曲への影響力を。


先述の「遊園地」は歌詞も大好きで、

抱きしめてくれた時 左肩を噛むと「痛いなぁ」と
目を合わせてくれるから またやった

ありきたりなんだって 当たり前を決める実もないくせに
何でも決めた気でいたな


このBメロ部分の4拍子の節の狂わせかたとか言葉がメロディのはざまで迷子になって音とリズムに解体されてくようでさすがのaiko姐さん!!!としか言いようがないんですが、

二度と行けないあの場所 何回目をつぶれば消えて行くのだろう あなたのいる遊園地


とか、ほんと見事ですなー。
もういないひとの、遊園地での想い出がいくら日々を過ごしても消えないまま取り残されて、それまで粋がっていた気持ちのほつれをふわっと持ち上げてきた。
悲しさって、記憶がつくるもののような気がするんですよね。景色だったり、匂いだったり、温度だったり、いつかいっしょに感じていたものの残像をいまひとりでみているということ。それが別離という意味のような気がする。

大切な人は合図もなしに あたしの前から居なくなりました


という底なしの悲しみをいちばん楽しかった思い出に張り付けていやがおうにもよみがえってしまう鬱陶しい絶望を、やけっぱちなリズムで嵐のような歌にするのはaikoの凄いとこだな〜。


もしかしたらaikoは、恋人が二度にわたって死にかけたという苦しさをこの曲に封印しようとしたのかもしれないなっていま思った。それを、あんなアップテンポで派手なビートで、変態的な節回しで言葉を壊して、「遊園地」という賑やかしい冠をつけて苦しさの核に蓋をして、それでもこびりついて滲んでくる匂いに気持ちを委ねたのかもしれないな。記憶や景色のなかから悲しさが漏れるように、まるで歌がそうであるように、歌を重ねて。


なんつって適当なことゆってますが、この曲はよライブでみたい!
佐野さんのドラムもさながら、たつたつさんの鍵盤プレイも超絶楽しみですよ〜。
とにかく「泡のような愛だった」は、aikoの音楽性の凄みとそれを受け止めるメンバーが作品をさらに高みにあげた傑作です〜



aikoかわいいよaiko

昆虫キッズは、わたしに遅すぎる青春をもたらしてくれた。
だけど、昆虫キッズ、と口に出すたびによぎるいかにも神経質そうな目付きの悪い若者が、いつか消えてしまったようでわたしは昆虫キッズのライブに足を運ばなくなったのだ。
もちろんひらすらクールでシリアスな彼らの音楽も最高にかっこいい。
だけど、悪あがきとモラトリアムとロマンで形成された彼らのファンタジーは、そりゃもうむせ返るほどまぶしくて羨ましくてたまらなかった。
未熟な時代の永遠を真空パックするという意味で、昨今のアイドルブームに音楽、とりわけロックという方法で太刀打ちできるのはおそらく彼らだけだろう。
彼らには魅力しかなかった。狂おしいほどに美しかった。自分がもう遠く手放してしまった瞬間を、彼らはぜんぶまとっていた。
夢中になった。高橋くんの言葉をぜんぶ知りたいと思った。いつか30歳になったときの高橋くんの言葉を知りたいと思った。


活動終了、という話を聞いたとき、悲しいとは思わなかった。
目も眩むような刹那にいた彼らはもうモラトリアムなんかに留まってないんだから。
だけど、音楽的な意見の相違とかが理由だったら本当にださいし嫌だなと思った。


昆虫キッズには大人になって当たり前に迎合なんてしてほしくない。高橋くんの決断には希望がある。だから昆虫キッズが大好きなんだと思うんだよ。昆虫キッズが好きだよ。昆虫キッズが好きだということが誇りだよ。





勝手なことしか言ってないけど、そんなことを、「活動終了」の文字を見た5秒ぐらいで思いました。

かもめんたる「下品なクチバシのこと!


下品なクチバシって一体なんだろうね。鶴の細長いクチバシは下品かい?
それは下品じゃないわ。
でもね、鶴のクチバシは、石の下にいる小さな虫をついばみやすいようにああいうかたちをしてるんだぜ。そう考えたら下品じゃないか。すごく直接的な、欲望丸出しのかたちをしているよ。

じゃあペリカンのクチバシは?
あれは下品よ。下クチバシをこんなに大きくして、中に魚をいっぱい溜め込んでる映像を何かでみたことあるわ。

でもね、鶴のクチバシもペリカンのクチバシも、理にかなっているという点では美しいよ。自然の作り出すものはなんだって美しいよ。

下品という言葉の意味を考えないといけないよ。
うーん、汚いとか臭いとか、あ、うんこを食べてるクチバシとかそういうことかしら?
僕はね下品っていうのは、身分不相応なことをすることじゃないかなと思う。身分不相応なことをするクチバシってなんだろうね?しゃべるクチバシかな?
ああ、それは気持ち悪いわ。動物がしゃべるのは確かに身分不相応ね。
しゃべるクチバシ、それよぉ!
九官鳥がいるねえ。
ああそうだったその存在を忘れてた九官鳥!ねえ、もうこんな話やめにしない?わけがわからなくなってくる。
ごめんごめん、僕はこんなことを考えるのが大好きなんだ。


こんな、何気ない夫婦の会話で幕を開ける「下品なクチバシ」は、その名の通り、「下品」とは何か、という、人間の品性をテーマにした作品だ。例えば国会の場でセクハラ野次を飛ばす議員や、戦争をしたがっている首相、ワールドカップに狂乱するひとや他者を見下して偉そうにふんぞり返るひと、礼儀や常識が皆無なデリカシーのないひとたち全員に対して、彼らは違う生物なんじゃなかろうか。そんなふうに思ったことはないか。
この作品内においてう大さんは、その違和感を人間とロボットになぞらえて描き出した。


もとはお手伝い用として生まれたロボットのプログラムが、何らかの原因でバグを発症し、ロボットは人間のように振る舞いながら、常軌を逸した行動をとるようになってしまう。
いつしかロボットは、ロボットである自覚を失い、人間の営みを当たり前に生きている。
エキセントリックな言動で翻弄するロボットを、人間は、バグを理由に受け入れる。
人間とロボットのあいだに生まれる奇妙な距離感やすれ違いを、鋭い言葉と凄絶な演技力で笑いにしてしまうのは、さすがキングオブコントの王者かもめんたると言える。


いちばん大好きなのは、「始まりは電気シェーバー」。う大さん扮する生真面目な男は、たまたま槙尾さんの口車に乗せられてこの店でシェーバーを買うも、4日後に紛失。その数奇な縁にモヤっとした気持ちで再来店し、思考が固まらないまま店先で暴走してしまう。ここまでだと、このう大さん扮する男はバグったロボットとして描かれてるのかとも思うが、彼は、槙尾さんに「最終的な目的」を聞かれたことで、はたと自身の狂逸を自覚する。


お客様はたぶん混乱されていたんじゃないですか。
(中略)最終的な目的はなんですか?って聞いたら、「新しい髭剃り」って答えてくださったんで、
言い方ヘンかもしれないんですけど、ちょっと、魅力的なひとだなぁって思いましたよ。

このセリフがすごく好きだ。混沌のはざまで顔を出した人間くささをとらえて、その素っ頓狂を愛しくるむような音がする。わたしがかもめんたるを大好きでたまらないのは、たぶんそういうところだ。彼らは人間の狂気をえぐりだしながらその、狂気に至るまでの感情のブレや回路のズレ、神経の昂りや驕りや恐怖までを、つまり人間というもののさもしい滑稽さを、脚本の言葉ひとつに演技の情緒の振幅にコントという奥行きに、見事に描き切ってしまう。この世に生まれた亀裂を、理性のタガが外れた音を、人間が動物になる瞬間を、笑いに昇華することでかもめんたるは、人間を肯定しているように思うのだ。


パラドックスを自覚した男はこのあと、堰を切ったように感情をあふれさせる。う大さんの演技が迫真を超えて狂気を憑依させると、わたしたちはただただスリリングに暴走する人間の姿を目の当たりにする。抜群のフレーズもさることながら、その、振る舞いのおもしろさたるや、演技力で笑いにもっていける彼の才能に平伏したくなるほどだ。Twitterだったか、ブログだったか、 「今日も気持ち悪いひとが演じられて楽しかったです!」というようなことを、う大さんが書いているのを見たことがある。「存在させられてるなぁ〜って気がするんだよね」と、居酒屋ふくライブの打ち上げでお話ししてくださった。


実際このキャラクターはロボットなのか、人間なのか、わからないしそんな設定すらう大さんのなかにはないのかもしれない。「下品っていうのは、身分不相応なことをすることじゃないかなと思う」という信念をはじめに宣言しながら彼は、身分不相応に暴走してしまう人間の愛しさをも愛しているのだろうと、この演技をみてるとそう思わずにいられない。ともすれば日陰に置いてけぼりになりそうなひとたちの存在を、その凄まじい演技力で輝かせようとするう大さんの、やさしい眼差しと愛情を感じずにはいられないのだ。


そうでありながら、「すべての女優に幸あれ!」ではついに、人間とロボット(という設定ではないかもしれないけど)のあいだに生まれる距離感に対して、強烈な真理のフレーズを浴びせる。品性ということに対する、彼の信念の溢水を浴びたような気持ちになって、思わず背筋がピンとなる。 いま一度「下品」とはなにか、考え込んでいるところにエピローグ、バグを起こさず自力でプログラムを書き換えることができたロボットと、自制心を超えて愛情が突っ走ってしまった人間と、不可能を塗り替えて共存していく2つの種族を結びつけてしまう。彼は、「下品」とは何か、をテーマにさまざまな角度から「ロボット」と「人間」と、その隔たりを描き出してきたが、その最後で、隔たりを超えた希望を投げかけてきた。かもめんたるにしか作れない、かもめんたるにしか表現できない、もはや芸術の域に達するこの単独ライブの最後に、かもめんたるの信念を落とし込んでみせた。そんな気がするのだ。

今回、『キングオブコント』で優勝してから初めてのライブで、そこで面白くなくなるのが一番ダメだから、気合いが入りますよね。それでいて、かもめんたるの方向性を示す作品を出さないといけない、という気持ちで作りました。(ぴあ関西版webより)


居酒屋ふくライブで畏れ多くも教えてもらったう大さんの好きな本、貴志祐介の「黒い家」には、人が人道を踏み外す経緯を心理学的に炙り出し、その犯罪心理は遺伝によって先天的に生まれてるという論と、罪人(サイコパス)は環境によって育まれるのだという反論を並べ、ペシミスティックな未来への憂いを投げかけている。
人間と、人間ではない別の種族が同じ世界に生きていて、いつか人間たちは食い潰されることになるのではないか、という懸念。だけど、ラストのこの文章を読んで、あまりに勝手な解釈かもしれないけど、まるで「下品なクチバシ」のようだ、と思ってしまった。

わたし、考えは変えないから
わたしは、生まれつき邪悪な人間なんていないと信じてるわ
怖かったし、憎かった。殺してやりたいとも思ったわ。でも、それであの人を怪物扱いするようになったら、わたしの負けだと思うの


好きな本、なんていろんなところで発表されていそうでほんと失礼なことを聞いてしまった気がしますが、でもこの本を読んだことで、「下品なクチバシ」の理解が深められたような気もするので、教えていただいて本当によかったと思います。


「下品なクチバシ」はほんっとにほんっとに素晴らしい作品で生で2回みれてほんとよかったし大阪行けなくて残念でしたがDVDになって繰り返しみれるのがとてもとてもうれしい。自分の好きなひとにはみんなにみてほしいと思います。あとかもめんたるの単独は今後もずっと行き続けたいぞーーーー



う大さんにもらったサイン!うれしい!う大さんはわたくしにも好きな映画を質問してくださって、答えを自分の携帯にメモってくださるというたいへん気を遣ってくださったのにわたしが答えたやつどれもDVDでレンタルされてないよってあとからヒコさんに言われましたよ!!!!!(ミツバチのささやきと東京上空いらっしゃいませ)