かもめんたる「下品なクチバシのこと!


下品なクチバシって一体なんだろうね。鶴の細長いクチバシは下品かい?
それは下品じゃないわ。
でもね、鶴のクチバシは、石の下にいる小さな虫をついばみやすいようにああいうかたちをしてるんだぜ。そう考えたら下品じゃないか。すごく直接的な、欲望丸出しのかたちをしているよ。

じゃあペリカンのクチバシは?
あれは下品よ。下クチバシをこんなに大きくして、中に魚をいっぱい溜め込んでる映像を何かでみたことあるわ。

でもね、鶴のクチバシもペリカンのクチバシも、理にかなっているという点では美しいよ。自然の作り出すものはなんだって美しいよ。

下品という言葉の意味を考えないといけないよ。
うーん、汚いとか臭いとか、あ、うんこを食べてるクチバシとかそういうことかしら?
僕はね下品っていうのは、身分不相応なことをすることじゃないかなと思う。身分不相応なことをするクチバシってなんだろうね?しゃべるクチバシかな?
ああ、それは気持ち悪いわ。動物がしゃべるのは確かに身分不相応ね。
しゃべるクチバシ、それよぉ!
九官鳥がいるねえ。
ああそうだったその存在を忘れてた九官鳥!ねえ、もうこんな話やめにしない?わけがわからなくなってくる。
ごめんごめん、僕はこんなことを考えるのが大好きなんだ。


こんな、何気ない夫婦の会話で幕を開ける「下品なクチバシ」は、その名の通り、「下品」とは何か、という、人間の品性をテーマにした作品だ。例えば国会の場でセクハラ野次を飛ばす議員や、戦争をしたがっている首相、ワールドカップに狂乱するひとや他者を見下して偉そうにふんぞり返るひと、礼儀や常識が皆無なデリカシーのないひとたち全員に対して、彼らは違う生物なんじゃなかろうか。そんなふうに思ったことはないか。
この作品内においてう大さんは、その違和感を人間とロボットになぞらえて描き出した。


もとはお手伝い用として生まれたロボットのプログラムが、何らかの原因でバグを発症し、ロボットは人間のように振る舞いながら、常軌を逸した行動をとるようになってしまう。
いつしかロボットは、ロボットである自覚を失い、人間の営みを当たり前に生きている。
エキセントリックな言動で翻弄するロボットを、人間は、バグを理由に受け入れる。
人間とロボットのあいだに生まれる奇妙な距離感やすれ違いを、鋭い言葉と凄絶な演技力で笑いにしてしまうのは、さすがキングオブコントの王者かもめんたると言える。


いちばん大好きなのは、「始まりは電気シェーバー」。う大さん扮する生真面目な男は、たまたま槙尾さんの口車に乗せられてこの店でシェーバーを買うも、4日後に紛失。その数奇な縁にモヤっとした気持ちで再来店し、思考が固まらないまま店先で暴走してしまう。ここまでだと、このう大さん扮する男はバグったロボットとして描かれてるのかとも思うが、彼は、槙尾さんに「最終的な目的」を聞かれたことで、はたと自身の狂逸を自覚する。


お客様はたぶん混乱されていたんじゃないですか。
(中略)最終的な目的はなんですか?って聞いたら、「新しい髭剃り」って答えてくださったんで、
言い方ヘンかもしれないんですけど、ちょっと、魅力的なひとだなぁって思いましたよ。

このセリフがすごく好きだ。混沌のはざまで顔を出した人間くささをとらえて、その素っ頓狂を愛しくるむような音がする。わたしがかもめんたるを大好きでたまらないのは、たぶんそういうところだ。彼らは人間の狂気をえぐりだしながらその、狂気に至るまでの感情のブレや回路のズレ、神経の昂りや驕りや恐怖までを、つまり人間というもののさもしい滑稽さを、脚本の言葉ひとつに演技の情緒の振幅にコントという奥行きに、見事に描き切ってしまう。この世に生まれた亀裂を、理性のタガが外れた音を、人間が動物になる瞬間を、笑いに昇華することでかもめんたるは、人間を肯定しているように思うのだ。


パラドックスを自覚した男はこのあと、堰を切ったように感情をあふれさせる。う大さんの演技が迫真を超えて狂気を憑依させると、わたしたちはただただスリリングに暴走する人間の姿を目の当たりにする。抜群のフレーズもさることながら、その、振る舞いのおもしろさたるや、演技力で笑いにもっていける彼の才能に平伏したくなるほどだ。Twitterだったか、ブログだったか、 「今日も気持ち悪いひとが演じられて楽しかったです!」というようなことを、う大さんが書いているのを見たことがある。「存在させられてるなぁ〜って気がするんだよね」と、居酒屋ふくライブの打ち上げでお話ししてくださった。


実際このキャラクターはロボットなのか、人間なのか、わからないしそんな設定すらう大さんのなかにはないのかもしれない。「下品っていうのは、身分不相応なことをすることじゃないかなと思う」という信念をはじめに宣言しながら彼は、身分不相応に暴走してしまう人間の愛しさをも愛しているのだろうと、この演技をみてるとそう思わずにいられない。ともすれば日陰に置いてけぼりになりそうなひとたちの存在を、その凄まじい演技力で輝かせようとするう大さんの、やさしい眼差しと愛情を感じずにはいられないのだ。


そうでありながら、「すべての女優に幸あれ!」ではついに、人間とロボット(という設定ではないかもしれないけど)のあいだに生まれる距離感に対して、強烈な真理のフレーズを浴びせる。品性ということに対する、彼の信念の溢水を浴びたような気持ちになって、思わず背筋がピンとなる。 いま一度「下品」とはなにか、考え込んでいるところにエピローグ、バグを起こさず自力でプログラムを書き換えることができたロボットと、自制心を超えて愛情が突っ走ってしまった人間と、不可能を塗り替えて共存していく2つの種族を結びつけてしまう。彼は、「下品」とは何か、をテーマにさまざまな角度から「ロボット」と「人間」と、その隔たりを描き出してきたが、その最後で、隔たりを超えた希望を投げかけてきた。かもめんたるにしか作れない、かもめんたるにしか表現できない、もはや芸術の域に達するこの単独ライブの最後に、かもめんたるの信念を落とし込んでみせた。そんな気がするのだ。

今回、『キングオブコント』で優勝してから初めてのライブで、そこで面白くなくなるのが一番ダメだから、気合いが入りますよね。それでいて、かもめんたるの方向性を示す作品を出さないといけない、という気持ちで作りました。(ぴあ関西版webより)


居酒屋ふくライブで畏れ多くも教えてもらったう大さんの好きな本、貴志祐介の「黒い家」には、人が人道を踏み外す経緯を心理学的に炙り出し、その犯罪心理は遺伝によって先天的に生まれてるという論と、罪人(サイコパス)は環境によって育まれるのだという反論を並べ、ペシミスティックな未来への憂いを投げかけている。
人間と、人間ではない別の種族が同じ世界に生きていて、いつか人間たちは食い潰されることになるのではないか、という懸念。だけど、ラストのこの文章を読んで、あまりに勝手な解釈かもしれないけど、まるで「下品なクチバシ」のようだ、と思ってしまった。

わたし、考えは変えないから
わたしは、生まれつき邪悪な人間なんていないと信じてるわ
怖かったし、憎かった。殺してやりたいとも思ったわ。でも、それであの人を怪物扱いするようになったら、わたしの負けだと思うの


好きな本、なんていろんなところで発表されていそうでほんと失礼なことを聞いてしまった気がしますが、でもこの本を読んだことで、「下品なクチバシ」の理解が深められたような気もするので、教えていただいて本当によかったと思います。


「下品なクチバシ」はほんっとにほんっとに素晴らしい作品で生で2回みれてほんとよかったし大阪行けなくて残念でしたがDVDになって繰り返しみれるのがとてもとてもうれしい。自分の好きなひとにはみんなにみてほしいと思います。あとかもめんたるの単独は今後もずっと行き続けたいぞーーーー



う大さんにもらったサイン!うれしい!う大さんはわたくしにも好きな映画を質問してくださって、答えを自分の携帯にメモってくださるというたいへん気を遣ってくださったのにわたしが答えたやつどれもDVDでレンタルされてないよってあとからヒコさんに言われましたよ!!!!!(ミツバチのささやきと東京上空いらっしゃいませ)