aiko「泡のような愛だった」のこと!



もはやこの方aikoの作家性というか変態性というか音楽家としての素晴らしさを語りつくしてくださったとゆえるのでわたしの出る幕なんぞないのですがしかし「泡のような愛だった」、いまさらすぎますが本当に名盤ですね。


aikoの作曲というか作詞というか節回しというかたぶん彼女自身が高域の声を出しずらくなって例えば「カブトムシ」とか「ボーイフレンド」みたいなわーっ!とサビでどキャッチーなフレーズを開放するような曲のつくりよりも例の菊地さんが唸ったという「くちびる」のような、複雑に入り組んだ節構成の低音ボーカル曲が増えたように思うけど、そして彼女自身もジャズのボーカリストのような、リズムのタメやファルセットを多用した技巧的な歌い方を魅せるようになってきたように思うけど、「泡のような愛だった」はその極みと言える、つまりヒットを狙うとかJ-POPかくあるべしみたいな、aikoなりに意識していたと思しきそういったしがらみから開放された、aikoだからこそ歌える、aikoだからこそ紡げる、メロディと言葉で歌う喜びを味わったaikoの作曲力とバンド演奏がもっとも喜ばしいかたちで成熟しているおそらくすべてのミュージシャンが嫉妬してしかるべき絶頂のように思います。


なかでもやはり、ドラムの佐野康夫さんとaikoのメロディが出会ったことは大きい。
aikoのうねうねしてるメロディが、タイトながらシンバルがしゃわ〜っとリズムに陰影を持たせる佐野さんの奥行きの豊かなドラムと重なって、曲の持つ表情の、喜怒哀楽の隙間にある言いあらわせないところを表現してしまう。「距離」のイントロなんか、ずっと好きなのにずっと言えないで保ったままのあなたとの距離に揺れ動く心の満ち引きを繊細なシンバル使いで表現してみせたといえるし、「遊園地」では昭和歌謡ライクな怒涛のスカリズムが、恋人に捨てられた暴風雨のような葛藤を表現しているように思う。この細かいアレンジ部分まですべて島田さんの指示なのか、ある程度のキメ事のほかは佐野さんがらしさを出しているのか、島田さんはいつごろから佐野さんが必要だと思ってたのか、彼のドラムを欲した理由は、とか、島田さんご本人の口から聞いてみたい気もしますが、天才的な勘の良さをもってるaikoなら、感覚でわかってるんだろうなー。佐野さんがもたらす曲への影響力を。


先述の「遊園地」は歌詞も大好きで、

抱きしめてくれた時 左肩を噛むと「痛いなぁ」と
目を合わせてくれるから またやった

ありきたりなんだって 当たり前を決める実もないくせに
何でも決めた気でいたな


このBメロ部分の4拍子の節の狂わせかたとか言葉がメロディのはざまで迷子になって音とリズムに解体されてくようでさすがのaiko姐さん!!!としか言いようがないんですが、

二度と行けないあの場所 何回目をつぶれば消えて行くのだろう あなたのいる遊園地


とか、ほんと見事ですなー。
もういないひとの、遊園地での想い出がいくら日々を過ごしても消えないまま取り残されて、それまで粋がっていた気持ちのほつれをふわっと持ち上げてきた。
悲しさって、記憶がつくるもののような気がするんですよね。景色だったり、匂いだったり、温度だったり、いつかいっしょに感じていたものの残像をいまひとりでみているということ。それが別離という意味のような気がする。

大切な人は合図もなしに あたしの前から居なくなりました


という底なしの悲しみをいちばん楽しかった思い出に張り付けていやがおうにもよみがえってしまう鬱陶しい絶望を、やけっぱちなリズムで嵐のような歌にするのはaikoの凄いとこだな〜。


もしかしたらaikoは、恋人が二度にわたって死にかけたという苦しさをこの曲に封印しようとしたのかもしれないなっていま思った。それを、あんなアップテンポで派手なビートで、変態的な節回しで言葉を壊して、「遊園地」という賑やかしい冠をつけて苦しさの核に蓋をして、それでもこびりついて滲んでくる匂いに気持ちを委ねたのかもしれないな。記憶や景色のなかから悲しさが漏れるように、まるで歌がそうであるように、歌を重ねて。


なんつって適当なことゆってますが、この曲はよライブでみたい!
佐野さんのドラムもさながら、たつたつさんの鍵盤プレイも超絶楽しみですよ〜。
とにかく「泡のような愛だった」は、aikoの音楽性の凄みとそれを受け止めるメンバーが作品をさらに高みにあげた傑作です〜



aikoかわいいよaiko