Kと真夜中のほとりでのこと

マームとジプシー「Kと真夜中のほとりで」みにいった。


映画もそうですけど、演劇の見方もよくわからないし、もちろん正解の見方なんてあるわけないと思いますが、それにしても語るに足りるほど数をみていない自分が感想など書くのは非常に気が引けますが、もう、ものすごかった。見てる最中も「すごい!!!」としか思い浮かばず終わってからも「すごかったね」としか言えない語彙力のなさ自分。


最初こそ「あーダメかも。嫌いかもなー、せっかく誘われたのに帰りなんて言えばいいんだろ」と帰り道での大ゲンカが脳裏に浮かびましたが、いつの間にか五臓六腑ごと嵐の中で打ちのめされてぶんぶん自我を揺さぶられた感じ。すごかった。すごかったとしか言いようがない。もうね涙がポロポロ落ちてきたもの。すごすぎて。で、一度泣いたらわけわかんなくなって感情がどんどん高ぶってなんでもないシーンでもひたすら涙が落ちてきたなあ。体験、ですねあれは。


なんか、絶対にぜんぜん違うと思うんだけど震災のことを思い出してしまって。わたしは東京で地震を体験して、ものすごく怖かったし、しばらく怖かったし、節電もあってのあの暗い雰囲気のことよく覚えてる。それと同時にあの不謹慎叩きに居心地が悪い思いをしたのも確か。それでも、なんだろうか、たくさんのひとが亡くなったなかでの自分の命の落とし前のあいまいさなのか、よくわからない感情がずっとある。生きてるし自分。


マームとジプシーをみてて思ったのは、生とか死とか愛とか、を表現するには、あれだけ肉体を追い詰めて追い詰めて追い詰めて、倒れるか狂うかまで追い詰めて、息を切らして酸素を求めて顔が歪むまで肉体に圧力を与えて、汗も涙もだだ流しのその極限まで役者を追い詰めて、初めて、語りえるのだと。その極限状態で役者さんが、演技を超えて搾り出した叫びこそ、生であり死であり愛であるのだと。言われてるようで、ああ、生きるということはかくも激しく熱情にまみれているのだと思いました。かつ、死というものは、死がもたらす苦しみというものは、かくも狂気的に日常を犯していくのだと思いました。ぜーぜー言いながら床に倒れ込んでいるさま、倒れたかたちで床が汗まみれになっているさま、阿鼻叫喚と恍惚の両極端をあらわしていたと思う。正直ダンスのような体の動きはバラバラでまったくしなやかではなかったし、声が音楽に消されて何を言ってるか聞き取れないときもあったし、息があがってリフレインがヒステリックな叫びにしか聞こえないときもあったけど、くりかえす運動のなかで、限界を来した役者さんの身体が表情が言葉を超えて、生命の重圧を語っていた。生命の尊大さを叫んでいた。彼らは慟哭する生命そのものだった。


はー、言葉にするとぺらっぺらだな〜。でも生命が警報を鳴らす音を、そのとてつもない響きを、お前は忘れるなよ、と。突き付けられてるような気がしました。よくわからないけど多分、わたしはずっと後ろめたいと思う。生きてることが。あんな絶望的な景色を見てものうのうと生きてるからなー、自分。もちろん死のうとは思いませんが、もやもやとした、こういう気持ちはずっとあるだろうな。薄れるのかな。作品を見終わって、あぁなんて救われない話なんだろうか、と思ったんだけど、でも生きることって、結局そういうことなんだろうなと思います。残されたものは、ずっと後ろめたいしずっと救われないけど、だから私たちはすべてを超えたオリジナルの不可侵の感情で愛するのだと。強く想うのだと。例えそれが相手に届かなくっても祈るのだと。「みつかるといいですね」は最大級の愛の言葉だと思う。夏目漱石みたいにスマートでも美しくもないけど、あなたのためにいちばん伝えたかった、心の奥の底に沈んだ言葉を、咄嗟に、吐いた、優しさに、もうボロボロ泣いてしまった。この救いようのない世界で出会って別れてすれ違って、どんな因果があろうと愛するという能動の光。こういう作品に触れると、あー生きてかなきゃなぁと思うし、好きな人と一緒にいられることの尊さを痛感します。すごくチケット取りづらいそうですが、もう一回みたいなぁマームとジプシー。もうちょっとちゃんと感想かきたいぜー。