じゃあね木星についたらまた

(前略)
 純粋性ということだけど、人間にとってこれはほとんど狂気と同じだと、私は思えるようになって来た。最初私は、最初というのは私がものを考えるようになった最初だから、随分昔のことだけれど、その最初の頃からずっと純粋ということが私の目的のように思って、ひたすらそれを追っかけて、それで体をこわしてしまった。しかも本来私が無意識に求めていたものは「純粋」ではなかったらしいのだから、心と体が分裂してしまったのだ。だから私はそれ以後、「純粋」の魅力から抜け出そうとあがきまくっているところがある。


 純粋というのは芸術の核だと思う、たしかに。どのジャンルであれ、芸術作品が凡人の心をうつのは、その純粋性の故だろうと私は思う。だから純粋により純粋にと、その魅力に引きずられて行ってしまうのも無理はないのだ。だめだ、これでは元へ戻ってしまった。要するに私が探していたのは芸術ではなく、求道的なものだったようだ。


 求道的と云うと道徳的でもあり、つまるところは宗教的であって、宗教にだって純粋性は関係ないわけぢゃないけれど、清濁あわせ飲むと云うと変だけれど、つまりあきらめなくちゃ、自分一人ぢゃなんにも出来ないんだということがはっきり分からなくちゃ宗教ぢゃないんで、芸術はあきらめてしまったらおしまいではないかしらん。
(後略)


1977年12月17日の和田夏十さんの文章について、ずっと考えています。この本はおもしろすぎるので好きなひとにあげたい。