Produce lab89『官能教室』再演シリーズ第1弾「三浦直之×堀辰雄【鼠】」のこと!

    



ロロの作品にあるみっともないぐらいまっすぐな無垢はどっからくるんだろうって思ってる。ただただ思って思い込んで思い続けてまがいものが付け入る隙ないピュアな思い方で、その思い込みだけで妄想を真実にひっくり返せちゃうほど強靭な無垢さで、世界を形成しようとしてる。そうやって世界が形成されると、三浦くんは信じてるのかもしれない。


以下、超絶ネタバレかつセリフはうろ覚えです。


『官能教室』と題された今シリーズ、三浦くんは堀辰雄の「鼠」をセレクトした。「死んだお母さんを思ってオナニーする少年の話」だと彼は言っていた。じゃあ、はじめます、と、一言いい、「彼等は鼠のやうに遊んだ」と、三浦くんがその冒頭を朗読する。「彼等はある空家の物置小屋の中に」と続けるうちに、空間現代・野口さんのギターが言葉を切り裂く。「どこ/から/見/つけ/てき/たの/か、數/枚/の古/疊を/運ん/でき/て、」ズタズタのはぐれ言葉が宙を舞う。と、「鼠」のなかで母親の面影に重ねて性愛の象徴とされている「石膏の女の人形」に扮する望月綾乃先生と、2人きりの追試の教室へ場面がスイッチする。まったく問題を解けない三浦少年。「明日も3-1で追試だから!」と促す望月さん。望月さんの、象牙のようななめらかな声が「鼠」のテキストをなぞる。野口さんのギターが寄り添い歌を呼ぶ。すると、言葉は子音からはずれて、母音だけが鳴らされる。


「みんな!お待たせ!」と、天井裏で「めいめい家から何か遊び道具を持ち出して」鼠のように遊ぶ少年たちがあらわれる。あるものは排水溝に溜まった母親の髪で作ったカツラ、あるものは盗んできた母親の脱ぎたての下着、あるものは拾った母親の親知らず、あるものは採集した母親の尿。そのたび三浦少年は、恍惚の表情をみせ、「ありがとう」と漏らしながら、髪を、下着を、歯を、母親のかけらたちを身に付け、尿を飲み、母親と同一化しようとする。同一化し、呼びかける。「直、どうしたの?そんなに暗い顔して」「きょうね綾乃ちゃんがね、ボインボイン触らせようとするんだよ!気持ち悪いよ!」「まぁかわいそうに。でも綾乃ちゃんのボインボインはボインボインじゃないから。あんなの偽物のボインボインだから、お母さんのボインボインを触って、直、ほら触って、あぁっ、そう!」三浦少年が自らのボインボインをまさぐり悶えていると、そこにまた綾乃先生が割って入る。そして三浦少年は告白する。自分が乳離れが遅かったこと、母親のボインボインから出たミルクをかけた朝食のグラノーラのおいしかったこと…「わたしは先生みたい立派なおっぱいは持ちあわせてないけど、わたしもお母さんみたいなミルクが出せるようがんばります。わたしのおっぱいならお母さんと同じミルクが出ると思うから」「もし三浦くんが望むなら、わたしのボインボインでミルクを…」と提案する先生。に、「いらないわ!」と一蹴する三浦少年。「先生はわたしのこと性的なまなざしで見ているふしがあるし、わたしもそうみているところがあるし…わたしは、性的なものとは離れたところでおっぱいのことを考えたいの!!」


怒り狂った先生に「母親の形見を学校に持ってきちゃダメって言ったでしょう!!」とすべて奪い取られ、差し歯を抜かれ、ペットボトルに放尿を命じられて抵抗できず、ただ泣き叫ぶだけの三浦少年。「石膏の石の人形」である先生は、形見をすべて身に付け三浦母を降臨させる。「鼠」を朗読する三浦母、鳴り出すギターのフレーズ。すると三浦母は、ギターの音にエクスタシーを感じ、悶えはじめる。そこへ出くわした三浦少年が、嬉々として「お母さん!」と叫び、「僕もできるよ!」とギターの音色を真似し出す。お母さんは三浦少年の音色には反応しない。野口さんの音にあえぎを漏らす。三浦少年は体をギターに変えて音を奏でる。「直、どうしたの?そんなに暗い顔して」「そう、でも綾乃ちゃんのボインボインは偽物のボインボインだから」三浦くんの声はギターだ。「じゃあお母さんが子守唄を歌ってあげるからね」……


「あっぶね!!!だまされるところだった!!!お母さんじゃないじゃん先生じゃん!!!」
そして、母親の形見を利用して三浦少年を性愛へと誘惑しようとする望月先生と、母親のかけらをひとつも持たずに母親と同一化しプラトニックを貫こうとする三浦少年の激しい攻防が、鬼気迫る演技合戦で怒涛に展開し、顔じゅうビチャビチャに汗を滴らせた三浦くんの、自らのおっぱいを鷲掴みながら欲望に打ち勝とうとする断末魔のようなふるまいでエンディングへ突入する。「鼠」の朗読は母音をあらわにし、母なのか石膏なのか先生なのか、望月さんの言葉と交わっていく。母音と子音とぐちゃぐちゃになって望月さんの言葉とまざりあっていく。野口さんのギターが混ざり合って言葉にグルーヴをつけていく。言葉は艶を帯びて空へ昇天する。つまり、それが、性的なものから離れたところにあるボインであり、三浦くんの理想とするセックスのことなのだろうか、と思う。


彼は、アフタートークで自分の母親に向かって自分が童貞であること、そしてオナニーもしないこと、をぶっちゃけた。戸惑う母親と野次を飛ばすロロのメンバー、笑いに包まれる会場。その最後のはじっこのほうで、早口で小さな声でこうも発言したのだ。「僕はお父さんとお母さんのことをすごい尊敬してるんで、だから、同じように人に思うことができない」と。出来すぎた両親に、きちんとした育てられ方をしたこと、それが自尊心となって彼の潔癖を生んだのかと。そしてその潔癖は他者への期待と理想のあらわれでもあるのかと。だからこそ、ロロの作品というのは、あんなにまでまっすぐに無垢で後ろ暗いことがひとつもない、まぶしい光にまみれているのかと。


つまりこの作品は、「鼠」という、「死んだお母さんを思ってオナニーする少年の話」に委ねて、性愛の象徴である石膏と、敬愛の象徴である母親、言葉という理性と、言葉のなかに埋もれるエロス(母音)を重ねて、三浦くんの、他者との関わり方のスタンスを、潔癖なまでの理想を、あらわにした作品だったんだと思う。彼は性と愛を切り分けて精神的なつながりで他人とひとつになれるということを、道具やトリックなしに気持ちだけで肉体を超えることができるということを、汗だらっだらで鼻水ずるずるな舌足らずの耳鼻咽喉で、訴えてみせた。理想論ではなくそれを証明してみせると、叫んでみせた。んじゃないか。そうやって世界は美しいまま形成されると、三浦くんは信じてるのかもしれない。信じたいと、信じてるのかもしれない。本当は、三浦くんの純真性について、三浦くんのお母さんに質問してみたいってすごい思ったんですが、でももう、十分みれたかなって、この作品で。だからやめました。てかああいうとき絶対質問とかできないけど。


あとあと、脚本やら演技やら音楽やら、も素晴らしいのですが、ロロの舞台演出は本当にすごい。小さないっこの舞台で、ほぼ暗転なく場面展開できるのはこのアイディアのたまものですね。脚立と学校机による高低差の使い方とかライトとスポットライトの使い方(デスク用のやつ)とか、最先端の機材なんてなしにアイディアと工夫だけで想像力を創造させる豊かな舞台を立ち昇らせてみせる。まさに、演劇を観る喜びを感じてしまいます毎回(なのでどネタバレ許して!望月さんもこの作品はもうやらないと思います、とおっしゃってたし!)。


この作品ができるきっかけをつくった&再演を決めてくれた徳永京子さんにも感謝です!(パンフの文章むっちゃよかった…)
はー、次は「ロミオとジュリエットのこどもたち」だ〜!楽しみだね!!